「泰三」は京都の高級京染呉服製造卸業を営む、(株)染の聚楽が昭和22年の創業以来製作してきた、上品で華麗なキモノの総称です。
創業者の先代高橋泰三は元来黒染め業者 ( 喪服や黒紋付などを染める ) の高橋染工(3年前に廃業)の長男でありながら、自らの絵心から、模様物をつくるために、独立開業することとなりました。当初高橋泰三商店と称し、ものづくりが始まったわけです。
白生地屋さんの援助もあったようですが、当時まだ戦後高級な友禅のものなど誰もできなかった時代に、手描き友禅の高級な留袖などを作り始め、これが泰三の高級な絵羽物生産のはしりでした。そして苦心し勉強を重ねて辿り着いたのが、一つは金彩工芸の最高峰である「平家納経」です。これは厳島神社に平清盛が奉納した経巻ですが、全巻に渡り、最高の技を駆使した金彩が施されています。
元来仏具の装飾だった金彩は、その後服飾にも取り入れられ現代に伝わっていますが先代はその技に着目し、留袖などにその技をふんだんに取り入れました。戦後間もない頃にそんなことをする人も誰もいなかったのですが、それがその後の泰三の作品の特長ともなっています。現在ではその技をすべて駆使できる職人はほとんどいませんが、今年から当時の作品の復元に取り組んでみたいと思っております。
もう一つ先代がそのもの作りの基本としたのが、慶長小袖でした。
安土桃山の末期から江戸時代に初期にかけて、大変豪華な小袖が製作され、その一部が現存していますが、通称慶長小袖といわれているものの製作上の特徴は、絞りと刺繍と金彩をふんだんに取り入れたもので、先代はこれを振袖で表現しようとしたのです。
これも戦後まだ誰もそうした高級品に手を染めていない時代でしたが、これが飛ぶように売れたのです。当時は今より袖丈が短く、中振袖と言っていましたが、これは先代が名づけたものです。
特に先代は刺繍の技を重視し、総刺繍の振袖や留袖は泰三の代名詞となりました。先代の後を追随するものもいましたが、現在では高級な総刺繍の絵羽物は泰三独自のものとなっています。
また色留袖というのも戦後先代が初めて製作したもので、その後絵羽物の一つのジャンルとして確立しました。それまでは祝い事はすべて黒留袖だったようです。
このように先代は戦後の高級な絵羽物生産の先駆者であり、自らデザインした個性的で華麗な作品は他を凌駕し、最高の京友禅としての金字塔を打ち立てました。
上品をモットーとしたその特長は、色数を抑え、シンプルでかつ華麗なもので、特に刺繍をふんだんに使った豪華な作品は、戦後の経済成長とあいまって、多くのセレブに愛用されました。
宮中を初め、多くの旧家、資産家の箪笥の中に先代の作品は眠っていると思います。
また先代はこよなく京都の歴史や文化を愛した男でしたから、現在の京都の街を作らせた豊臣秀吉が、その生き方も含めて大変好きだったようで、作品も当時の雰囲気をベースにしているだけでなく、昭和42年に法人化したときの社名を、(株)染の聚楽にしたのは聚楽第を意識していたものです。
先代は昭和62年創業40周年の年に67歳で死去いたしましたが、その後を継いで私 ( 本名高橋洋文 ) が二代目となってものづくりの歴史を繋いでおります。
先代の遺業を守り伝えるために色々な手を打ってまいりましたが、一つは京都本社で制作した作品を「泰三」というブランドで発表することで、そのために商標登録をし、絵羽物には下前に金彩で写真のような泰三のマークを入れております。
付け下げの場合は生地の端に入れており、仕立て上がってから改めて下前に記す事としております。
高橋泰三は先代も当代もキモノ製作のプロデューサーであって、いわゆる染織作家ではありません。したがってこのマークはいわば製造保証と心得ております。泰三の製作したものは、そのキモノに生あるかぎり面倒を見させていただくという証でもあります。
平成10年辺りからきもの業界の流通環境の悪化に伴い、多くの老舗問屋や専門店が倒産や、廃業の憂き目に会い、作り手のこだわりが消費者に伝わる道が細くなりました。
泰三の作品も従来からの道が途絶えるところが頻発し、消費者の手元に届ける手段を失うこととなった地域も現に有るのです。
そうした事情に鑑み、作り手の情報を正しく発信することが肝要と心がけ、ブランド化した時点で、情報発信拠点を消費地に持つべきだろうと考え、今までの泰三の最大の販売地である、東京にアンテナショップをぜひとも開設したいという思いでおりましたところ、縁あって現在の銀座の地にお話を頂き、平成13年2月9日に開店の運びとなりました。
高級友禅の製作を手がける製造卸業が、そのブランドの直営店を立ち上げたのは、洋服のアパレル業界では当たり前であっても、きもの業界では前例が無く、また東京には既存流通先もあったので、その整合性には気を使いました。
ただ泰三の作品は一柄一点の本当の一品ものだけに、両立は可能だと思っておりましたし、現実そのように推移しております。
開店して8年を過ぎて、予想はしていたことですが、その流通先であった専門店もいくつも次々に倒産してしまい、もし銀座の店を立ち上げていなかったら、泰三の作品は行く手を失っていたと思われます。
現在京都は産地として極めて低迷し、職人や従事者の高齢化とあいまって、先人が紡いで来た文化をいつまで維持できるかという心配な情況ですが、英知を尽くして、ものづくりの継承に尽力する覚悟です。
また銀座の店は単に泰三の作品を発表する場所だけでなく、キモノや帯全般にわたりお手伝いできること、或いは産地の真面目なものづくりの紹介などを心がけております。
お気軽に何でもご相談下さい。
産地と消費地を結ぶ最短の架け橋として、銀座の店は益々その存在価値が上がっていると考えますし、消費者に役に立つ情報発信拠点として活用していきたいと考えております。