25年は一昔

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一昨日京都に戻って参りましたが、京都本社も昨日は休みなので、南座に歌舞伎を観に行ってきました。

今月、南座では初の秀山祭公演で、また昨年秋に襲名された3代目中村又五郎さん、4代目中村歌昇さんの親子の京都お目見え興行でもあります。

秀山とは、初代吉右衛門さんの俳名で、平成18年9月に生誕120年にちなみ、その遺徳を偲ぶと共に、ゆかりの芸の研鑽と伝承を図ることを旨として始められたものです。

現吉右衛門さんは、初代の母方の孫に当たり、小さなときから養子に入られました。ご存知のように現幸四郎さんとは兄弟です。

今月の公演は、昼の部が元禄忠臣蔵(仮名手本忠臣蔵とは違います)の御浜御殿綱豊卿、猩々、熊谷陣屋で、夜の部が、俊寛、口上、船弁慶です。

熊谷陣屋、俊寛共に初代のあたり役でもあり、当代もよく演じられています。

御浜御殿は、真山青果の難しい芝居で、仁左衛門さんが最近よく演じられるのですが、今月は愛之助さんでした。

事前に知らなければ仁左衛門さんかと見間違うほど本当に口跡もそっくりで、驚きました。勿論仁左衛門さんが指導されたのでしょうが、それにしてもよく似ていました。

熊谷陣屋は私も色々思い出があります。

かつて京都には素人顔見世という、南座の顔見世の千秋楽の次の日に、素人だけでその年の出し物を演じるという、京都の風物詩的な興行がありました。

いわゆる京都の旦那衆のお遊びですが、死んだ父も歌舞伎キチガイで、この会の常連でした(その父の連れられて私も小学校の時から歌舞伎を見ていたのですが)。

演技指導は松島屋さんの一門がされていたので、亡父はそのせいということでもありませんが、先代の仁左衛門さんが大の贔屓でした。楽屋暖簾も何枚も贈っています。

ですから仁左衛門さんのあたり役を演じたがっていたものです。

この熊谷陣屋では、弥陀六(平宗清)を先代仁左衛門さんが良く演じておられました。

上演記録を見ると昭和52年に、熊谷直実が先代の幸四郎さんで、宗清が仁左衛門さんで演じられており、その年の素人顔見世だと思うのですが、父がその役を演じさせてもらいました。

父も芸好きで一生懸命でしたので、本当に真面目に稽古していましたし、舞台での真剣な演技ぶりを今でもよく覚えています。

この宗清は幼い義経、頼朝を哀れに思い助けたのですが、そのことで平氏が滅亡してしまうという悔しさ、無念を演じるので、非常に難しい役なのです。

まあ歌舞伎好きの人ならこの芝居は良く上演されているので、一回は見たことがあるでしょうが、義経が直実に、「一枝を伐らば一指を剪るべし」という意味深な制札を持たせて一の谷に出陣させるのですが、実は後白河法皇の落としだねである敦盛を助けろと言う含みで、直実は我が子、小次郎の首を身代りに差出し、敦盛を救うのです。

その敦盛を鎧入れのつづらに隠し、宗清に持たせるのです。

宗清は自らの無念と共に、義経への感謝、敦盛を託された喜びなどを演じるのです。

私も先代仁左衛門さんのこの役を何度も見た覚えがありますが、枯れた味が必要でもあるので、当代は一度も演じられていません。

今月はその役を歌六さんが演じられていますが、ちょっと元気が良すぎるような気がいたしました。

直実は忠義の武士として主君の思いを汲み、まさに一指を剪ったのですが、その無念を制札をもって演じる「制札の見得」が有名ですが、この世の無常をはかなみ、戦時下にもかかわらず、その場から出家をしてしまいます。

その最後の「16年は一昔、夢だ、夢だ」という台詞が有名です。

その役が大好きで、実際に南座で演じた父のことを思い出しながら観ておりました。

その父がなくなって今年で25年です。バブル経済崩壊以降縮小に次ぐ縮小を続ける超構造不況業種のキモノ業界の中で、その高位な文化性を保持したモノづくりを続けるために、色々腐心してきたこと、その間に相続や社内的な色々な苦労などが、走馬灯のように脳裏をかすめます。
本当にあっという間の25年でした。

まさに私にとって25年は一昔です。でも決して夢では無く現実なのです。

その現実を受け止め、出家することなく、これからの予想される種々の苦労に立ち向かわなければならないとつくづく思うものです。


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