伝統の重み

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オリンピックもついこのあいだ始まったと思っていたら、あっという間に終わってしまいましたね。

金メダルは少なくても、メダル数全体では史上最多でそれなりの成果があったことは何よりでしたが、ちょっと判定等や無気力試合などで物議をかもしたり、いつものことながらお金とのかかわりの問題が取りざたされたり、純粋にトレーニングに励む選手の姿とは相いれないドロドロしたものが渦巻くのは苦々しい思いです。

しかしこうした選手のレベルを上げるにも、その育成環境が必要で、施設だけでなくマネージメントできる人材の重要性を今大会で思い知らされました。

ある意味国別対抗戦のオリンピックゲームは、国威発揚には大変効果もあり、強い選手を育てていくことは、国策として考えるべきです。

世界の先進国で、日本はそうした補助金が非常に少ないのです。だからどこかの企業がスポンサーにならないと選手が生活できなくなり、だからどうしてもその選手に色がついてしまうことは否めません。

スポーツも国威発揚、つまりがアイデンティティの発揮となるのなら、固有文化も同様です。

ところがそれに対する補助金も同様に諸外国に比べ非常に少なく、現政権になってまた減らされています。

大阪市長のTWITTERで物議を醸している文楽協会への補助金問題に典型的に現われていることですが、その補助金を出す側が正しく文楽を理解していないので、文楽は単に大衆芸能の一つであって、決してそれだけが特別扱いをされることがおかしいというようなことを言い出しており、訳の分からないアーツカウンシルだとか、まさに文化への補助金の費用対効果などを言い出しています。

人間国宝の収入が高すぎて若い技芸員が食べられないのだろうとか、あまりの発言に
大夫、三味線の両人間国宝が倒れてしまいました。

確かに若い技芸員の収入は低く苦しいでしょうが、それは覚悟の上のことで、だから上の連中が面倒を見てやるのが芸事の世界です。

つまり親分が稼いでいないと面倒を見ることができません。歌舞伎でもそうですし、吉本なんかその典型です。

そういうことを知っているはずなのに、まるで嫌がらせのような言動はあまりにひどく、昔ならこういう発言はお里が知れると言って、誰かが諭したものですが、TEITTERを使って好き放題発信されて、それに同調するものが出てきて、なかなか良識ある人が発言できない雰囲気です。

昔ならそれなりの地位を得ると、茶道の一つでも知らないと、相手にされなかったものですが、今は財界でも和文化の造詣の深い人など爪の先ほどしかいないので、恥を搔かないので、こうしたとんでもない言動を連発できるのでしょう。

私は浄瑠璃の清元をもう20年以上お稽古をしていますが、同じ浄瑠璃でも人形浄瑠璃、つまり文楽に使われる義太夫は別物です。

文楽を見に行ってもどうしても私は義太夫の方が気になってしまうのですが、もちろん人形遣いも半端な芸ではありません(あの男はただの人形劇だと言いましたが)。

ただあの語り方は、清元など足元にも及ばないと言わざるを得ません。

義太夫は基本的には一挺一枚(語り手一人と三味線一人)で演奏されます。
仮に人形が舞台上で5体あったとしたら、当然その台詞も5人分すべて大夫(人形浄瑠璃の義太夫のみこの字を使います。歌舞伎の義太夫は太夫です)が語り分けます。

老人でも娘でも、子供でも全部それなりの声を出して語るのです。
清元でも素浄瑠璃の演奏会の時は(歌舞伎の地で出ている時は役者がいるので台詞の部分は語りません)そういうこともありますが、最大4人で語り分けをします。

しかし文楽の義太夫は、基本的には一人で語るのです。

声の出し方も基本は腹からと言っても、独特の発声で、綺麗すぎてもいけません。

まさに人間国宝の竹本住大夫さんの声は、いわゆる声帯をつぶさないと出ない声で、血を吐くほどに稽古をすると言われています。

この技は本当にそう簡単に習得できるものではありません。

かつては素人でも義太夫の稽古をする人が結構いて、落語でも大家さんの義太夫に店子がいやいや付き合わされるという話が在りますし、京都の花街でも義太夫の三味線のひける地方さんもおられたのですが、今は皆無に近い状況です。

ただでさえ芸事のできる客が激減している中で難しい義太夫をお稽古している人は極端に少ないようです。

人形浄瑠璃では一番の見せ場を語ることを切場語りと言いますが、それができるまでには長い長い修練が必要です。

お腹に重しをして腹筋を最大限使って絞り出す声は、私ではとても真似ができません。

義太夫は綺麗な声では駄目なのです。

三大浄瑠璃という、義太夫、常磐津、清元で言えば、清元はいわばテナー、常磐津はバリトン、義太夫はバスというようなイメージです。

三味線も太棹ですし、力もいります。大夫とまさに二人三脚での演奏は息が合わなと難しく、大体それぞれの大夫さんの三味線は誰と決まっています。

親が語り子が弾くということもよくあります。

語り手の癖をわきまえていないと、ツボにはまった弾き方はできません。

もちろん人形遣いも主遣い、左遣い、足遣いと3人で一体を操るという独特の物で、本当にまるで人間そのもののような動きをする技は何大抵のことで得られるものではないのです。

こうした至高の芸が300年も続いてきたのは、先人のたゆまぬ努力の賜とは言え、それを今日まで継承してくる価値があると認めて来たからに違いありません。


だからこそ行政も力を入れ、補助をしてきたのに、古典は難しいから、脚本を変えろとか、演出をもっと面白くしろだとか、現代語でやれだとか、尋常ではない言動に、情けない思いをしています。

面白ければいいのではありません。シェークスピアの劇が面白いですか。面白いとか面白くないとか、それで客が入る入らないという思考過程がまさにおかしいのでしょう。

日本国で人の上に立つ者は、世界の認めるこの芸能だけでなく、先人が残してきた他の芸能にも深い造詣を持ってほしいものだと、彼らの耳にタコがで着るほど言い続けて行きたいと思っています。

そのことがキモノという文化を守ることにもつながって行くと言うことだろうと考えます。

まあ少なくともキモノの仕事に関わるものは、能、文楽、歌舞伎は観に行ってほしいですね。そして何かを学び取ってほしいものです。

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