桐紋について

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先日お得意先で黒留袖を売っていただき紋入れ加工に戻ってきて、大変驚きました。

なんと五七の桐です。

以前にも桐紋のことは解説させていただいたと思いますが、改めて書かせていただきます。

もともと家紋というのは、平安時代の公家が自分の好きな花などを文様化して、着るものや身の周りのものに付けたという事が始まりとされています。

いわばそのお公家さんのアイデンティティですかね。

その後戦国時代に武士が旗指物に目印として使うようになってから、家紋という概念が確立していくわけですが、その平安時代につくられたもののなかで、大変古くかつ有名なものが
桐紋です。

平安京3代目の天皇、嵯峨天皇の時に考案されたと言われています。

これには理由があって、嵯峨天皇は中国の故事などに明るく、鳳凰と言う想像上の瑞鳥は、世に聖天子が生まれ、善政が施されたときのみこの世に出現し、桐の木に宿り竹の実を食べると言うような謂れを知っていたのでしょう。

竹の実と言うのは竹の花が咲いた後にできるわけですが、ご存じのように竹の花は、日本の真竹では120年ごと、中国の孟宗竹で69年ごとに咲くと言われており、花が咲いた後竹林が枯れてしまいます。つまりはめったにないということですが、藤原薬子の乱を収めて、平安京の基礎を固め大きな力を持った嵯峨天皇が自ら聖天子であると自負していたのかどうかは別にして、この故事をもとに、桐の木を愛で、桐の花をモチーフにした桐花文が考案されました。

この鳳凰と、桐と、竹を組み合わせたものを桐竹鳳凰紋と言って、かつて最高位の模様として天皇しか使うことができないものでした。

父もこの話はよく知っていて、流石にこの文様を使うのは不遜だと言って、遠慮していたものです。ところが最近は節操なく、白生地の柄に使われているのを見て驚いたものです。

桐花紋は実は後世にも色々考えられ数えきれないほどあるのですが、もっともよく使われ知られているのが、五三の桐と五七の桐でしょう。

一般的には五三の桐よりも五七の桐の方が上位な紋と言う位置づけがされています・

嵯峨天皇が好まれたという事で、この紋は天皇家を象徴する者として大切に扱われていたようですが、鎌倉時代の最初の天皇の後鳥羽天皇が、百華の王と言われる菊が大好きで、色々なものに菊の紋様を付けさせました。

今もそう言う刀が残っています。

その後の天皇も3代ほどに渡ってこの菊紋を使ったがために、いつのころか天皇家の正門は菊と言う事になり、桐紋が副紋、あるいは替え紋という存在になったようです・

そしてこの桐紋を、天皇家に功績のあった者に下賜するということになりました。

有名な人では足利尊氏が拝領していますが、彼は室町幕府の象徴として五七に桐を使いましたし、織田信長ももらっていますし、一番この紋が欲しかったのが、豊臣秀吉で、彼は最初は五さんの桐を拝領したのですが、後に五七の桐も貰い、それをまた自分のは如何にも下賜しています・

その上自分で五七の桐をアレンジした太閤桐を作っています。

そんなわけで五七の桐は時の最高権力者、政権担当者が貰うものだというような風潮となりました。
徳川家康は当然天皇家が下賜するといったのに断りました。

しかし明治になって再びこの桐紋が政府の紋として使われることになり、内閣総理大臣の紋、日本国の紋章として今に伝わっています。

関西では女紋といって、家紋では無い紋をもってお嫁にいくのですが、誰がどんな紋章を付けても構わないという風になってから、この桐紋への憧れから、五三の桐を使う人がとても多く、いまでは女紋の代表のような存在となっています。

しかし五七の桐は女性が付けるには重すぎるという事で、女性で五七の桐をいれた人はいママで見たこともありません。

当然そのお得意先に確認したのですが、その女性は今までもこの紋を入れているというので、また驚いたわけです。
よほど歴史のある名家なのか、逆になにもそう言う言われを知らないで付けているのかということではないかと想像しています。

とまれこの桐紋には長い歴史があり、現在日本国政府を代表するマークとしてパスポートにも記載されていますし、五百円硬貨の裏にもついていますね。

紋章にはそれなりに歴史がありますし、それだけでその家のルーツなどがわかったりします。

家紋はゆめゆめおろそかになさらないでいただきたいものですね。


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