18年目

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12月13日は私にとって、(株)染の聚楽にとっても忘れられない日です。

たまたま京都では花柳界の事始めの日ですが、2000年12月13日に銀座の店の賃貸借契約を結びました。

製造卸業でありながら、銀座にパイロットショップあるいはアンテナショップを高級呉服業界で例が過去にないので、当初は色々なことを言われたものです。

銀座には当社の、1番、2番の得意先の高級呉服専門店があるにもかかわらず、小売りをすると言うことで、欲をかいているだとか、問屋の分際でとか、どうせ長く続かないだろうと陰口をたたかれたものです。

私にしてはこれは泰三というキモノブランド戦略の一環で、アパレル業界のSPAを敢行したのであって、何らおかしな事でも無く、消費者に製品情報を発信するためにはリアル店舗が必要だと言うことだったのです。

それだけではなくやむにやまれぬ事情もありました。

当社は作り手ですし、販売は小売店や地方の問屋などに任せてきたわけですが、平成10年にその中で信用して応援してきたところにいきなり破産をされ、かなりのダメージを受けましたし、その後も信じられないような老舗の倒産が連発したり、流通業者が極端に疲弊し、バブル経済破綻後の苦境を乗り越えることの出来なかったところが多かったのです。

それまでずっと好況だったところにしてみれば、景気というのは必ず循環するという思いを持つ経営者が多く、的確なリストラ策なども取らず、どんぶり勘定経営に終始したがために、仕入れ先への支払いの遅延、銀行借り入れの返済困難と言う事態になり、100年以上の業歴を誇るようなところでも、坂道を転がり落ちるように急激に経営環境が悪化し、粘りのない無能経営者が次々と手を上げていったのです。
当社の銀座の得意先も全く同様で、過去の名声に胡坐をかいて、売り上げ減に何ら手を打つことなく、丼勘定に徹し、我々の品物が委託で売れても支払いが一部しかないという状況となり、挙句の果ては売ってやっているのだから支払いが少なくても我慢しろと言われました。
これではもうまともに付き合えませんし、この店は間違いなく倒産するという確信をもって、その銀座での流通と生産をつなぎとめるための出店だったのですが、他の業者にはその事情は分からなかったようです。

当社は先代以来高級フォーマル呉服の製造で名を馳せたところですので、その売り先の倒産は、経営上の一大事で、生産が続けていけなくなります。ということは職人さんが食べていけません。職人さんの生活を守るためにも何とか流通をつなぎとめる必要に迫られていたのは確かです

流通が疲弊し、本当に購買を考えている人へ商品が届かないというのは、生産者にとっても非常に悔しいことでもあります。

私はずっと以前からこの業界の流通構造改革が是非とも必要で、そうでなければ真に消費者の嗜好を生産に反映できないと思っていました。

消費者は決してペラペラの安っぽいものを買いたいなどと思っていませんし、上質な良品をリーズナブルに買えることを望んでいるはずです。

ところがこうした思いに正しく応えられるパワーが小さく、組織の大きなところが決して消費者のためにならないものをとんでもない値で売りつけているという実態があります。

生産者とリスクを正しく共有して本物を届けていただける流通業者が存在すればそれに越したことは無いわけですが、私の周りには見当たりませんでしたので、私は自らその流通を構築することを決意し、そのための準備をしていたのです。

自らが販売に出るにあたって重要なのは自らの製品のブランディングです。
それで私は20年以上前からブランド戦略を考え、それまで小売店のショップブランドで売れていたものを、泰三という高級呉服のブランドとして世に認知してもらえるようにしようと思ったわけで、下前のところに泰三の名を金箔で入れたのですが、これもまた色々抵抗がありました。
しかしその頃もうほとんどの商いが委託販売に変わっているので、ご承知いただけないのならお取引を辞めましょうかと暗に示唆したら、だれも取引を辞めた人はいませんでした。当社から貸してもらえない方のデメリットの方が大きいからでしょう。

そしてその次にリアルショップの展開が必要だと思っていて、銀座に出店する数年前から色々調査していたのです。
幸か不幸か帯に短し襷に流しのような情報ばかりで逡巡していたのですが、2000年の秋に東京で初めて対消費者向けのコレクションを開催したときに銀座で一番古くから不動産の物件を斡旋されているところに飛び込んだのです。

実は父が1987年に亡くなってからもそのお店からDMが届いていて、何故かということを知りたかったこともあるのですが、相手をしていただいた代表の方が私の色々な思いを聞くと共に、なぜDMが届くのかをお尋ねしたところ、やおら私の名刺を見直して、以前にその方が生前の父に対応されたことを思い出し、なんと父が銀座にアンテナショップを出したいと言っていたと聞かされ驚愕しました。

まだ卸業として十分成り立っていたときに、父がそんな考えを持っていた等と初めて聞かされ、何故かは分からないですが、その方も何か縁を感じられたのでしょう、私のコレクションを見に来ていただき、心から感心され、今の物件をご紹介いただくと共にオーナーに掛け合っていただき、とりあえず私に会おうと言うことになって、対面し私の色々な思いをお伝えしたところ、その方が私をお気に召したようで、是非出店させてあげたいから、2週間のうちに返事をしろと言うことになったわけです。

条件的には、なんとか維持できだろうと思いましたが、いきなり銀座からの話で、まだその時は銀座の得意先も存在していたので、難しい選択でもあったわけですが、色々な縁を感じましたし、これも神の声と思い決断したわけです。

それから開店までの間本当に何の準備もしていなかったわけですから大変でしたが、2001年2月9日(木)に、21世紀幕開けと共に開店をすることが出来たのです。

卸との整合性を図るためにも、価格の問題もあり、卸で売っているものとほぼ、当店は仕同じ価格帯に設定しましたが、当店の場合はその中に仕立代や消費財も込みですので、明らかにこちらが安いのですが、特に目くじらを立てられることもほとんどありませんでした。

それは同じものが二つと無いという製作精神を貫いていたからです。
全く同じものが値が違うというのは問題ですが、私は着る方々の事を考え、絶対に同じ会場で同じキモノを着た人に会うことのないようにという作り方を続けていたのです。

当初は当然ですが知名度も低く、立場上あまり大きな声で店のことをPRできなかった事情もあったので、すぐにHPを作成し、その後地道に色々なキモノに関する情報は自分の思いを伝えていたのですが、そのうちにそれを見た人がお見えになるようになってきたわけです。
開店して数年で私が予想した通り銀座の有名な高級呉服店は破産をしてしまい、京都の業者は初めて私の狙いが分かり、先見の明があったとおだて始める始末でした。

京都で作り江戸で売るというのはかつて三井高利が越後屋を作った時にしてきたことですが、私は自ら両方をしたので、2週間ずつの2重生活という道を続けざるを得ず、それはそれで色々大変なことも多かったのは確かです。

長くなりますのでこの辺にしておきますが、製造小売りが実現できれば、資金回収も早くなりますし(そういう売り方をすればですが)、色々な情報を得ることも発信することもできます。

私は来年古希ともなり、いつかは引退していきますが、これからこの業界で生きていく人は、できるだけ短い流通で消費者にとってわかりやすく信頼のおける道をとれば、必ず続けて行けるだろうという思いを持っていただきたいのです。

現在生産者は生糸高だけでなく色々なコストが上がり、なおかつ職人さんの高齢化も進む一方で、需要が益々陰り大変な状況になっております。

先人から引き継いできた、多くの技の消滅もすぐ目の前に迫ってきているような気もします。手遅れかもしれませんが、何とか本物と言えるモノづくりの道が絶えないことを祈るのですが、それには流通業者がその道を守って行こうという見識と気概がなければと心から思っております。

勉強をし、消費者の正しい知識と情報を授与することを目指し尽力してほしいと業界の年長者の一人として期待をするものです。


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