回顧

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本当に酷暑続きで、夕方になるとかなり激しい雨が降るなど、まさに亜熱帯地方の天候に変わってきたように思うこの頃ですが、昔はこれほど暑いと思ったことはまれでした。

私は昭和47年にこの業界に身を投じたわけですが、当時は京都の基幹産業で、羽振りもよく、京都経済は和装関連業者の功績が一番でしたね。

私がキモノの仕事に従事したころは、作れば売れるという売り手市場の最期の方で、昭和50年くらいから全体の生産量が右下がりとなり、それ以降一度も右上がりになったことが無いという超構造不況業種となり、かつての京都の最大の産業が、今では風前の灯火となっている現実に暗澹たる思いです。

昭和30年代後半から始まったキモノブームで、戦前のキモノ業界の事情は大きく変わり、かつては上物は誂えないと無かったのですが、戦後復興の中で可処分所得の多い人がどんどん増えて行き、高級なものを誂えではなく、メーカーの思いで作って、市場にだせばそれが次々売れて行くという具合で、その先駆けで、いち早く最高級なモノづくりを始めたのが私の亡父でした。

また当時はキモノがまだまだ必需品でもあり、空襲で焼けたということもあって、作れば売れるという状況でしたから、1つの作品にいくらでも追加注文がありました。
手描き友禅はそれが何十枚とあったところで原価はそうは変わらないのですが、帯はそうではありません。最初の段階で初期投資は終わっていますので、1柄でたくさん追加が付けば付くほどどんどん儲かるという仕組みですので、俗にガチャ万と言われていました。

聞いた話では1柄で1000本も売れたということでしたから、当時の西陣の旦那衆の鼻息は荒かったですね。

そうした追加品の製造で、染も織も職人さんは目いっぱい働いていて今頃の盆休みも返上でした。ただ旦那衆は左うちわででしたし、結構な時代でした。

各問屋は盆明けに全国に出荷し、やっと夏休みが取れるような状況でした。

それが今ではまさに閑古鳥が年中泣いているような状況で、追加などめったになく、職人さんも手持無沙汰で、各職場はガラガラという状態です。

私はこの業界に、生産数ピークの忙しい時に身を投じて、そこからずっと右下がりで生産が減っていくのをずっと見続けて来たので、最近では業界の生き字引的存在になりつつあります。
このままでは手描き友禅の上物の生産が止まってしまうかも知れないような窮状、惨状は見たくもありませんが、何か打開策を講じなければ確実にそうなると思います。

作り手だけでなく売り手もベテランが去って、とんでもなく質の低い販売員が口から出まかせでものを売るようなデパートなどもどんどん増えて行きます。

本物の寿物を見る機会はドンドン減っていくでしょうし、これからも泰三の会を催していきますので、そういう時に是非ご覧になってください


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